湯取りの👁ゆとり
湯から上がり、部屋に向かおうと再び玄関口を通りかかると、百目鬼様が言っていたように、先ほどとは打って変わって受付の順番待ちをする旅人がすでにちらほらと見られた。主人はその対応に追われていたが、私たちの姿を認めると律儀にも会釈をしたので、私もぺこりとお辞儀を返しつついちばん奥の部屋を目指して廊下を行く。 奥の部屋を使うのは百目鬼様曰く「最も物音に煩わされない」かららしい。全ての木戸は開け放たれていて、外からの空気が風呂上がりの肌を優しく撫でていく。まだどの部屋も埋まっていないのを見るに、玄関にいた旅人たちが私たちを除いて最初の宿泊客のようだ。 年季を感じる深い色の廊下は、一歩踏み出すたびにぎしっとやや頼りない音を立てるものの、掃除は行き届いている。奉公人と思われる小使も数名見かけたので主人自らが掃除をしているということはないのだろう。しかし、丁寧そうなあの性格がいくらかは反映されているに違いないと思うとともに、つい昨日まで同じような立場にいた者として、小使たちの細やかな仕事ぶりに頭が下がる思いがした。 そんなことを考えている間に廊下の最奥に突き当たる。百目鬼様に続いて後ろ手で木戸を閉めつつ客室へ入ると、二人で泊まるにはやや手に余る広々とした空間が私たちを出迎えた。遠慮がちに隅の方へ手荷物を置き、湯上りで火照った肌をぱたぱたと手で扇ぎながら室内を見回す。 柱や畳などがやや古めかしくはあるものの、それがかえって気取らないようで心地よい。 床の間には力強い筆致の掛け軸が飾られ、違棚には背の低い鶯色の壺が据えられている。こちらも廊下と同様に塵一つなく手入れされているようだ。 そして部屋の奥、こじんまりとした中庭に続く縁側はいつの間にか百目鬼様が陣取っていた。彼女は縁側に座って外を眺めながら、先ほど風呂場でしていたように髪を手で梳いている。水分を含んだ長い髪は艶を湛え、いっそう深い黒に染まっているように見えた。一反の織物のような髪を垂らした後ろ姿に思わず見入ってしまう。 「目を澄ましそ」 こちらを見ないまま百目鬼様は私を咎めた。後ろにも目が付いているかのようだ……もとい、彼女の場合はあながち比喩に留まらないだろう。 「失礼しました……それほどまでに長いと乾くのに時間がかかりそうだと思いまして。私の場合はこの短さなのであまり煩わされませんが」 言いながら私は髪に指を通す。さすがに湿り気を感じるが、毛先は既に乾き始めていた。それに対して百目鬼様の髪は見目にももったりとした重みを感じる。 「おいらかに思ひ言はば、痃癖す。いかにも見せらるれば、削ぎても事よろしきものを」 「しかしこれほどの柳髪、もったいないですよ」 「言に出でみるばかりなり。あはれ、もとより髪ぞ短からまし」 百目鬼様は憂鬱そうに言いながら自らの髪を弄んでいる。彼女が髪を持ち上げ手を離すたびに、水分で纏まった髪がぱらぱらと降りていく。 先ほどの忠告も忘れて見入っていると、ふと百目鬼様の動きがぴたりと止まった。 「……や。夕餉来ぬなり」 何かを察知したらしい彼女が振り返るとともに戸を叩く音がし、「失礼します」という女性の声の後、客室の木戸がすうっと静かに開く。 *Alka*さんの素敵なLoRAをお借りいたしました! *Alka*さん→ https://pixai.art/@alka-kotoriine

