重なる碧緑 ―東京、二〇二六―
※本作はフィクションであり、実在の人物・団体・地名・歴史上の出来事等とは一切関係ありません。 一 宇津木航が初めてイルクーツクの街を歩いたのは、二〇〇一年の秋だった。 モスクワでの一年間の語学研修を終えた頃、指導教員に「シベリアも見ておくといい」と勧められた。深い意味はなかったはずだ。ただ航自身、幼い頃から祖父がその方角の話を避けるように語っていたことを、どこかでずっと覚えていた。 祖父・彰は、多くを語らない人だった。抑留されていたということ、帰ってこられたということ。それ以上の話は、家族の誰も聞いたことがなかった。 イルクーツク国立大学の交換留学生として、航は半年間、街の郊外にある一軒の家に下宿した。その家の息子が、ミハイルだった。 二 ミハイルは航と同い年で、大学で経済を学んでいた。まだロシア語がおぼつかない航に、片言の英語と身振りを交えて、気長に付き合ってくれた。 家の居間には、古びた肖像画が一枚飾られていた。若い女性の油絵で、額縁だけが不釣り合いに立派だった。 「先祖だよ、こう見えても昔は貴族だったんだ」 ミハイルは誇らしげに言った。「革命の混乱を生き延びた、うちで唯一の宝物だ。他のものは全部、あの時代になくなってしまったから」 航は、その絵の中の女性の胸元に、鮮やかな緑色の石が描かれていることに気づいた。だが、それ以上は尋ねなかった。異国の、遠い時代の話だと思っていた。 廊下には、家族写真が何枚か並んでいた。その中の一枚、白黒の古い写真に写る痩せた老人を、ミハイルは「曾祖父」とだけ紹介した。名前までは、航の記憶に残らなかった。 三 半年の留学を終えて帰国してからも、二人は連絡を取り合った。手紙、やがて電子メール、さらにSNS。互いの近況を、途切れ途切れに交わし続けた。 航は大学院を出た後、外務省に入った。ロシア語を活かせる部署を望み、望んだ通りの道を歩いた。ミハイルは大学卒業後、地元の会社に就職し、結婚し、娘が生まれたと聞いた。 二〇一九年の夏、ミハイルが妻と幼い娘を連れて日本を訪れた。航は仕事の合間を縫って、東京を案内した。浅草、渋谷、そして航が個人的に好きな古い喫茶店。ミハイルの娘は、寿司よりもラーメンを気に入っていた。 「いつか、お前も家族を連れてイルクーツクに来いよ」 別れ際、ミハイルはそう言って笑った。航は曖昧に頷いた。妻も子もいない自分に、その約束を果たす日が来るとは、正直なところ思っていなかった。 四 二〇二二年二月、航はその日の報道を、省内の自席で見ていた。 それ以降、欧州局の業務は目に見えて増えていった。制裁の実務、在留ロシア人への対応、絶え間ない情勢分析。航はその渦中で、来る日も来る日もロシアに関する書類に向き合い続けた。 半年ほど経った頃、航はロシア関連の職務から外れ、別の部署へ異動になった。人事上は、単なる担当替えだと説明された。侵攻後の組織改編に伴うものだと周囲は言ったが、航自身、それだけが理由だとは思えなかった。画面の向こうの制裁対象者名と、イルクーツクで過ごした半年の記憶とが、いつからかうまく重ならなくなっていたことに、航は薄々気づいていた。 ミハイルとの連絡は、次第に間遠になった。世界情勢が混乱する中、冷え込む両国の関係と同じ速さで、二人のやり取りも間遠になっていった。 二〇二四年の冬、航のもとに一通のメールが届いた。ミハイルの母からだった。 短い文面だった。ミハイルが召集され、数か月前に戦死したという知らせだった。 航はその画面を、長い間見つめていた。何かを感じているはずなのに、その感情に名前をつけることができなかった。 五 翌年、航は外務省を辞めた。 引き止める声もあったが、多くを語らずに退官した。妻も子もない身軽さが、その決断を後押ししたのは確かだった。 その後、難民・避難民の支援に携わる小さなNPOに加わった。ロシア語を話せる人手は、常に足りていなかった。 航は自分でも、なぜこの道を選んだのか、はっきりと説明できなかった。ミハイルの戦死が影響したのか、それともただ、外交の最前線にあって何も出来なかった自分自身の身の置き所を探していただけなのか。 ただ一つだけ、確かなことがあった。あの国から逃れてくる人々の顔を見るたび、航はミハイルの顔を、そこに探してしまう自分に気づいていた。 六 バトーが「日本」という国の名を初めて意識したのは、祖母の膝の上でだった。 「お前の曾々祖父さまはね、昔、日本人に石を分けてやったことがあるんだよ」 子供の頃、何度も聞かされた話だった。抑留されていた日本人の若者と、言葉も通じないまま働いた日々。吹雪の夜に助け合ったこと。別れ際、川で拾った石を託したこと。 真偽のほどは、バトー自身にも分からなかった。家族の間で少しずつ形を変えながら伝わってきた、半ば伝説めいた話だった。それでも、その話を聞くたび、バトーの中で「日本」という国だけが、地図の上の他のどの国よりも近しいものに感じられた。 長じて、バトーは独学で日本語を学んだ。仕事の合間、安い教材とインターネットの動画を頼りに、誰に強いられたわけでもなく。 七 二〇二二年の秋、バトーの元に召集令状が届いた。 同じ通りに住む男たちが、次々と姿を消していった。帰ってきた者は少なく、帰ってきても、以前とは違う顔をしていた。 バトーは、行かないことを選んだ。 国境を越える道のりは、多くを語れない。ただ、故郷を出てから日本の地を踏むまでに、長い月日と、いくつもの国を経由する必要があったとだけ記しておく。 八 日本での生活は、平坦ではなかった。言葉は独学の域を出ず、身元も、これからのことも、何一つ定まっていなかった。 支援団体の存在を教えてくれたのは、同じような境遇で日本に流れ着いた別の男だった。バトーはその紹介で、あるNPOの事務所を訪ねた。 対応したのは、ロシア語を流暢に話す、航という名の日本人だった。 九 航との面談は、事務的なものだった。在留手続き、生活支援、日本語教室の案内。 その合間、雑談のように、バトーは祖母から聞いた話をした。曾々祖父が、シベリアで日本人の捕虜に石を渡したという、あの話を。 航は少しの間、黙っていた。 「うちの祖父も、シベリアに抑留されていたそうです」 それだけだった。互いの祖先が同じ場所にいた可能性について、二人ともそれ以上は踏み込まなかった。ただ航は、後日、一枚のパンフレットをバトーに手渡した。 シベリア抑留の記憶を伝える、小さな資料館のものだった。 十 資料館を訪れたのは、バトー一人だった。 平日の午後、館内に人影はまばらだった。展示室を一巡し、白樺の樹皮に綴られた日記や、手作りの食器、色褪せた写真の数々を眺めて歩いた。どれも、祖母から聞いた話より、ずっと重く、静かだった。 奥まった一角に、小さなガラスケースがあった。 中に収められていたのは、一つの石のペンダントだった。糸は新しいものに替えられていたが、石そのものは、深い緑と黒の入り混じった色をしていた。 添えられた説明札には、こう記されていた。 「本資料は、抑留者・芳賀伸吉氏の遺品である。氏の証言によれば、労働に従事していた現地の男性(名をエルデムと言った)から、一九四七年、贈られたものだという」 バトーは、しばらくその場を動けなかった。 十一 「何かご質問でも?」 声をかけてきたのは、館内の職員らしい中年の男だった。名札に「芳賀」とあった。 バトーは、しばらく言葉を選んでから、たどたどしい日本語で答えた。 「……この、エルデムという人は……私の、曾々祖父です」 芳賀直人は、一瞬、言葉を失ったように見えた。 「本当ですか」 「祖母から、聞きました。日本人に、石を渡したと」 二人はしばらく、ガラス越しにその石を見つめていた。何から話せばいいのか、どちらにも分からないようだった。 十二 その日、直人は閉館後も、バトーを事務室に招いた。 祖父・伸吉が遺した手記の写しを、一枚一枚めくりながら、直人はぽつりぽつりと語った。抑留地での出来事、吹雪の夜のこと、そしてあの石を託された経緯。 バトーは、家族に伝わる話と、それを一つずつ照らし合わせた。細部は違っていた。だが、幹の部分は、驚くほど重なっていた。 「曾々祖父は……その後、どうなったか、ご存知ですか」 直人は、静かに首を振った。 「祖父も、そこまでは知らなかったと思います。移送されて、それきりだったと」 バトーも、頷くしかなかった。バトー自身、エルデムがその後どのような人生を送ったのか、家族の誰からも詳しくは聞いていなかった。 ただ、一つの石だけが、八十年近い歳月を越えて、ここに残っていた。 窓の外はすでに暮れかけていた。ガラスケースの中の石は、館内の照明を受けて、深い緑とも黒ともつかない色に沈んでいた。 バトーはふと、故郷のバイカルの水を思い出した。凍る間際の、あの色を。 十三 「もしよろしければ」 直人が切り出した。「あなたのお話を、記録として残させていただけませんか。エルデムさんの、その後についても、もし分かることがあれば」 バトーは少し考えてから、頷いた。 「……曾々祖母から聞いた話なら、少しだけ」 エルデムはその後、家族のもとへ戻り、年老いるまで同じ土地で暮らしたという。多くを語らない人だったと、バトーの祖母は言っていた。ただ、時折、遠くを見るような目をすることがあった、と。 直人は、その言葉を一つずつ、丁寧に書き留めた。 十四 数か月後、資料館の展示に、説明札が一枚増えた。 「二〇二六年、贈り主エルデム氏の子孫と、本資料館において対面が実現した」 航がその文言を目にしたのは、直人に招かれて資料館を訪れた日のことだった。バトーの在留手続きに関する報告のついでに、直人がぜひにと誘ったのだった。 「妙な縁ですね」 航はガラスケースの中の石を見ながら、そう言った。深い緑とも黒ともつかない、静かな色をした石だった。 「本当に」 直人は短く答えた。それ以上、どちらも言葉を継がなかった。 航の脳裏に、なぜか一瞬、イルクーツクの居間に飾られていた、あの古い肖像画がよぎった。鮮やかな碧緑の石を身につけた、若い女性の絵。 だが、それがこの石と何か関係あるはずもなかった。航はすぐにその記憶を振り払い、窓の外へ目をやった。 冬の陽が、静かに傾き始めていた。
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